〜幻の南部馬と寒立馬について〜

------はじめに---------

現在、南部馬の血を受け継いでいるのは、寒立馬だけであります。

尻屋で最初に田名部馬が飼育されたのは、1721年。

2020年(平成32年)には、尻屋崎寒立馬300周年記念となります。

 


 

-----寒立馬ができるまで--------

下北地方には南部藩の官牧として大間(おおま)、奥戸(おこっぺ)の二つがありました。

大間は元和年間(1615~)、奥戸は天正年間(1573~)に開かれたとされる古い牧野でしたが、本藩と遠く離れていたためか、独自の歩みをたどっています。

もともと下北半島は、盛岡南部氏の分家筋とはいえ、八戸から独立した根城南部氏の支配下にありました。

ところが宗家意識の強い盛岡側は、27代利直が八戸沿岸23村と領地交換するという名目で下北を接収してしまいます。

狙いは無尽蔵にあったヒバ林。それまで地元住民から伐採税を徴収する代わりに自由に伐採させてきたヒバ林を、御留山(藩有林)にしてしまいます。

それを藩で管理するのならまだしも、藩財政が窮乏してくると、一山いくらで大阪商人に売り飛ばし裸山にされてしまう結果を招き、住民を嘆かせます。

それはともかく、南部藩では下北の農民を山組と馬組に分け、それぞれ林野保護と南部馬育成の労役に服させました。引き換えに薪山と秣(まぐさ)山の利用を許しましたが、実態は農民側の一方的な奉仕と言っていいものでした。 馬組は村の“重立ち”を肝煎りとして5~6軒の農民で編成しました。

本来下北の藩牧は通年放牧が原則でしたが、冬の凍死や狼害が多かったため、秋には「御野馬捕り」を行って近村へ下ろし、春まで「舎飼い」させる方針に転換しています。

馬を預かった農民はもちろん無報酬。 そのくせ役人による管理規則は非常に厳しいものでした。

しょっちゅう馬役人が見回りに来て、少しでも栄養不足だったり毛づやが悪かったりすると、とがめたてられるのです。 馬が病気になると、昼は2人、夜は3人で12時間交代の看病をさせられ、運悪く死んだものなら田名部の代官所から検視役人が来るまで、これまた昼夜の張り番をしなければなりませんでした。

以上は藩牧(公営牧野)の馬の話。

 

下北では民牧(民間の牧野)はあまり盛んではありませんでした。

道路が未発達で山が多いという地形も大きく影響していたことでしょう。

けもの道同然の山道では、馬より牛の方が安心ですし、輸送能力も勝ります。

牛は、馬のように飼育や売買規制が少なかったので、馬から牛に乗り換える農民もたくさんいました。

享保6年(1721)の調べでは「馬3065頭、牛2420頭」だったのが、

明和元年(1764)には「馬2421頭、牛3558頭」と数字が逆転しています。

下北の馬は、2度にわたって外国馬が導入されています。

まず康正2年(1456)、現在の下北郡川内町に居を構えていた豪族・蠣崎蔵人(のちの松前氏の祖)が八戸の根城南部氏に反旗をひるがえした時に、遠く沿海州に船団を送って大量の軍兵と馬を輸入しています。

反乱に敗れた蔵人は北海道に逃れたが、数百頭のモンゴル馬、ロシア馬は南部氏の手に落ち、在来種との混血に使われました。次に文政年間(1818~)、南部藩の御馬奉行・蠣崎安忠がモンゴルから種馬100頭を輸入して、下北の馬を改良しています。

すでに江戸時代初期からペルシャ馬などが導入されていたが、気候・風土に適応した品種を作り出すという目的意識を持ったものとしては、これが最初だったと思われます。

この馬は現在の寒立馬(かんだちめ)の直接の祖先と考えていい。

その耐寒性と粗食性は農耕馬として打ってつけで、需要はいくらでもあったといいます。

しかしどんどん増殖するわけにはいきません。

採草地不足が最大の原因で、第二に飼養戸数を増やせないという経済的な事情もありました。

 

「本県最東端之地」という石碑が浜風にさらされている下北半島尻屋崎。 そこに、コケのように痩せた芝草を黙々と食む馬たちがいます。 彼らは、寒風にたたずむ素朴で逞しい姿から寒立馬(かんだちめ)と呼ばれています。

ずんぐりと短く太い首、発達したアゴ骨、大きく張り出した腹、低い背丈に不つり合いなほど丈夫な足、大きいひづめ…その姿には、通年放牧を通して気候風土に順応してきた馬の形が見てとれます。

その昔、みちのくの山野を風のように駆けめぐっていた野馬もかくあらん。

その馬格から察せられるように、モンゴル馬の血を濃く引いている。

北海道和種(ドサンコ)との共通点も多く、しかも、より特徴的です。

寒立馬の繁殖地として尻屋崎が選ばれた理由として、土壌が石灰岩質だったことがあげられます。

石灰岩土壌に生える草を食べた牛馬は骨太になると言われています。

特にひづめが堅固になるという大きなメリットがありました。

太平洋に大きく突き出た岬は、風が強いため冬でも雪が積もりにくく、通年放牧が可能でした。

厩舎を持つ余地のない尻屋の農民にはもってこいだったわけです。

軍馬需要が最盛期だった昭和10年代には150頭まで増えたこともありますが、

戦後は下降線をたどり昭和47年にはわずか9頭にまで減少。絶滅も危惧されました。

 

 

 


-----寒立馬の危機--------

1930年(昭和5年)  150頭飼養

1972年(昭和47年)  9頭に減少   第一次寒立馬保存対策

1989年(平成元年)80頭飼養

1995年(平成7年)    9頭に減少   第二次寒立馬保存対策

2010年(平成22年) 30頭飼養

2013年(平成25年) 38頭飼養

 

 

 

-------青森県天然記念物に指定された寒立馬---------

◇2002年(平成14年)11月18日「寒立馬とその生息地」としてー。

1.  歴史的背景寒立馬は下北の馬産の風土がつくりあげた、生きた歴史的文化遺産でもあります。

古来、自然放牧し順応し、厳冬期の厳しい環境に適応した形質を獲得し、独特の風貌、生活力を身につけ、歴史的背景と生態的特徴は、他の例を見ないものです。

 

2.  環境に適応した形態的・生態的特徴寒冷風雪の環境に対応した体毛を生じます。蹄(ひづめ)は、自然に成長するまま底面積が広く、野草地から海岸、砂利を往来することにより、蹄の底にデコボコが生じ、そのことから柔らかい地表面、雪面を歩行することができます。

 

3.  環境保持の面で果たす役割尻屋崎には絶滅危惧種の北方系植物で、本州で唯一しかも分布南限である、シコタンキンポウゲが生息しています。寒立馬はこれを食さず、他の植物を食するので、生存の手助けとなっています。

 

 

 

 

-----寒立馬の名前の由来------

昔の名前:地元の人たちは、「野放し馬(のばなしうま)」と呼んでいました。

他に、文献では、「四季置付(しきおきづけ)」=周年放牧のこと。

今の名前:寒立馬(かんだちめ)と呼ばれ親しまれております。

名付け親は、昭和45年当時の尻屋小中学校の学校長、岩佐 勉(いわさつとむ)先生が、書初めの会場で、尻屋の人たちを前に詠まれた短歌でデビューしました。

「かんだち」=カモシカが厳寒の中、動かずに何日もたたずむ姿をいいます。

ですから、寒立馬は、尻屋原産の新造語です。

さりながら、岩波の広辞苑や俳句の季語辞典である「歳時記」などに、堂々と搭載されて、国籍を取得した尻屋語なのです。 「寒立馬」のデビュー短歌《東雲(しののめ)に 勇みいななく 寒立馬 筑紫ケ原(ちくしがはら)の 嵐ものかは》短歌の意味は、「やませの風を受けながら(灯台へ行くゲートとは反対の石灰山側の丘)筑紫ケ原に登ってゆく寒立馬たちが、勇ましげにいなないています。

結句の「嵐ものかは」は、昔の古い言葉(古語)で、嵐になったというのに、へっちゃらだと言わんばかりです。

という意味です。

 

 

 

 

-----寒立馬の生い立ち-----

1. 田名部馬(たなぶうま)・・・比較的小ぶりで、寒さと粗食に耐え、持久力に富み、南部馬を祖とする。

 

2. 藩政時代から明治、大正、昭和にかけ、主に軍用を目的に、外来種との交配によって、大型化へ向け改良されました。

 

3. 尻屋では、田名部馬をブルトン種と交配し、独自の馬を生み出しました。

十和田市に日本一の軍用補充部が設けられ、多くの馬が戦地へ送られました。

日本の馬の歴史を背負ってきたといえるでしょう。

※馬体の体格は、小型から中型です。→南部馬が形成されました。

(官牧、民牧、里飼い) 体高は古馬で約150cm。

 

 

 

 

------寒立馬のルーツ------

1. 在来種・南部馬の歴史平安時代後期→貴族が和歌を詠み、歌枕(うたまくら=和歌の言葉で「枕詞まくらことば」)に 「をぶちの駒」として用いられておりました。

当時から、「をぶちの牧」として広く知られておりました(南部領)

 

2. 平安時代~鎌倉時代の平氏、源氏の武士=有力武士の乗用馬として最高級の評価=源平の戦などに使用されました。 特に軍記物語の代表的な「源平盛哀記」、「平家物語」鎌倉幕府の正史「東鏡(あずまかがみ)」に登場する永久不滅 の馬が、南部の駒なのです。 「をぶちの駒」の名声と血統を誇りとする我らが郷土の日本一の馬産地でした。 源頼朝の馬で、家巨の梶原景季(かげとき)氏に与えられた名馬「池月(いけづき)」は、七戸の牧の産、同じく家巨佐々木氏には「磨墨(するすみ)」=三戸住谷野(すみやの)の牧の産でした。

 

3. 南部藩の馬政→馬の改良戦、馬耕、御野馬(おのま)、役所(=馬別当)、管理の苦労から周年放牧へ。  

周年放牧は、1750年、奥戸(おこっぺ)牧、大間牧の御野馬別当・一戸五右衛門(いちのへごえもん)により始められ ました。

 

 

 

 

------寒立馬の一生----------

繁殖馬は、能力のある限り供用されます。

春に産まれた子馬の♂雄は、11月開催の青森県家畜市場、農用馬に上場し販売されます。

♀雌は、保留され越冬します。 春1歳になり、優良は繁殖用として保留、繁殖馬更新となり、残りの1歳馬は市場販売となります。 販売による収入は、牧野組合運営費などの諸費用にあてられます。

※寒立馬への東通村保存事業補助金は、300万前後。

※頭数が絶滅しかけたときに、現状回復のために、青森県から助成金がでていましたが、

現在は助成金をもらっていません。

◇牧野面積669.5ヘクタールに、寒立馬の管理頭数上、繁殖牝馬25頭を基本にしています。

 

 



 

参考文献:   幻の南部馬を訪ねて     

               寒立馬保護 ガイドクラブ           

                  日本在来種 Wikipedia